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史跡について

更新日:2021年12月22日更新 印刷ページ表示

史跡 History Culture

一條神社

 この神社は、文久2(1862)年、中村御所跡の一部の小森山山頂にあった一條家御廟所跡に、土佐一條氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立されました。
 土佐一條氏は応仁の乱を避け下向した前関白一條教房に始まり、以後4代、中村の文化、経済の発展に力をそそぎました。
 この神社には教房の父、兼良を始め、土佐一條氏歴代の霊を祀っています。
 市民には、「いちじょこさん」と親しまれ、毎年11月に行われる大祭は、土佐の3大祭の一つに数えられています。現在の社殿は、昭和19(1944)年の建立です

中村御所跡(一條神社)

中村御所跡(一条神社)

 市街地の中央に盛り上がった小森山がある。この丘にはもともと愛宕神社あったが、一條教房が中村下向のとき他へ移しここに御所を構えた。天正年間に一條氏は中村を追われたが、慶長12年(1607)、遺臣により一條氏数代の霊をまつる祠が建てられた。境内には藤見の御殿跡や化粧の井戸など一條氏ゆかりの旧跡が残っており、毎年11月22日から24日には一條氏の徳を偲び、全市を上げて盛大な一條大祭が行われている。
※アクセス時間 中村駅より車で5分

女郎ぐも相撲大会

女郎ぐも相撲大会の画像

 女郎ぐも相撲大会は、今から約550年余前、応仁の乱を避けた一條教房公と共に中村の地に下ってきた女性たちが、華やかだった京都の暮らしを懐かしみ、中村でも宮中のいろいろな遊びを楽しんだ中に女郎ぐも相撲があったといわれている。
 現在は、毎年8月の第一日曜日に市内中心部の高台にある一條神社境内において、子ども達の夏の思い出として開催している。

不破八幡宮

不破八幡宮の画像

 

 

 

 


 


 不破八幡宮は、今より約550年余前、一條公が応仁の乱を避け荘園経営のため中村に開府のとき、幡多の総鎮守として又一條家守護神として山城国石清水八幡宮を勧請したものであり正八幡、広幡八幡といわれる。
 本殿は昭和38年7月1日付で国の文化財保護委員会より重要文化財の指定を受け、昭和40年11月1日起工、同41年12月31日完了で改修が施された。
※アクセス時間 中村駅より車で10分

太平寺

太平寺の画像

 

 


 

 

 


 南北朝時代の文和年間(1352~56)、海峰性公尼(かいほうしょうこうに)が四国巡礼の僧泉巌覚雲の助けにより建てた寺で、天文年間(1532~55)寺を修復した土佐一條氏3代房基は、非常時難所として土塀に3角形の矢狭間を設け軍事的に重視した。
 境内には、堅い石垣を構え江戸初期建立の山門を備えており一隅に大江卓の書である「自由の碑」が立っている。
 海峯性公尼と覚雲の座像は室町時代の肖像彫刻の傑作とされ、国の重要文化財に指定されている。
※アクセス時間 中村駅より車で5分

薫的神社

薫的神社の画像

 

 

 

 

 

 
 
 薫的は寛永2年(1625)中村に生まれ、山内入国以前は土佐第1の大寺であったといわれる長宗我部の菩提寺瑞応寺の住職となったが2代藩主山内忠義の戒名などの争いから投獄され、獄にあること7年、絶食、経文の血書などに必死に苦節を守り寛文10年秋自殺を企て絶食すること49日、ついに寛文11年(1671)正月10日座したまま噴死した。時に47歳。
 神社は佐岡にあり、勝負の神様、各種試験合格の神様として多くの信仰をあつめている。
※アクセス時間 中村駅より車で5分

黒尊神社・奥の院

黒尊神社の画像1

 黒尊神社は、山津見神社とも呼ばれ、熊野神社の流れをくむ格式の高い神社である。
 この境内にある大杉は、樹齢500年以上(推定)、樹高40m、胸高直径3.4m、根回り9m、枝下13mの威容を誇っている。
 他に、同年齢で直径1m以上の桧6本、アカガシ古木1本、樟古木2本がある。

黒尊神社の画像2

黒尊神社の画像3

奥の院の画像1

[奥の院]
 「奥の院」前の淵には神霊である蛇が住んでおり、蛇が好きな卵を投じてその卵が割れなければ願い事が叶うといわれている。

奥の院の画像2

奥の院の画像3