「中村史跡めぐり」(2003年12月掲載)、「中村史跡めぐり第二回」(2004年3月掲載)に続き今回はその最終回です。
 今回も広報紙に掲載の市長のコラム「市長室こぼれ話」に沿って史跡を紹介していきます。
 今回元になる「市長室こぼれ話」はNo.39、平成16年3月号に掲載されています。

中村史跡めぐり 第一回
第二回

広報なかむらHP
史跡めぐりHP

写真撮影:2004/6/16


**市長室こぼれ話**

 今回で中村史跡めぐりの最後となります。史跡めぐりには中村貝塚から幸徳秋水までの歴史が展開されていますが、その間多くの人・町・為政者が栄え、衰え、建物が形づくられ、壊されていきました。町づくり、地域づくり、人々の福祉はどうなっていたのかなあ、と絶えず考えさせられます。

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 上の写真は、本文中に出てくる「須賀神社」、その狛犬が現在見ている風景です。この狛犬が見る風景もどれだけ変わったことでしょう。

**市長室こぼれ話 つづき**

 さて、史跡めぐりです。小姓町の一角に一条房基供養墓があります。房基は父房冬、母玉姫の子として生まれた土佐一条家第三代の当主でした。墓の所在がわからなくなり、後代の人が房基の死を悼んで、ここに供養の墓をたてました。

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 この供養墓、場所がちょっとわかりにくくなっています。左下の写真が供養墓のある通りですが、民家の影になるために見つけにくいのです。注意して探してみてください。

 撮影の日には鳥居の脇の紫陽花がきれいな花を咲かせていました。

 中村の地は、教房が応仁乱を避け流れ着いた流刑の地のようなイメージを持っている方がいるかもしれませんが、土佐一条家の時代からはそうではなかったようです。
 土佐一条家の当主の位は高く、京との交流もあり、中村は正に小京都であったといえるでしょう。
 


**市長室こぼれ話 つづき**

  次に商工会議所の前に小姓町の碑があります。小姓町は桜町に隣接して、為松山の山裾に広がる町名で、山内3万石時代に、主君の護衛を任務とする小姓組の屋敷が配置されていました。町人街との接点を形成していました。

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 現在は写真のように商工会議所が立っている場所に小姓町の碑は立っています。その前は高知県立中村高等女学校が建っていました。

**市長室こぼれ話 つづき**

 次は検察庁の横手に墓地がありますが、ここに幸徳秋水が葬られています。秋水は中村の豪商「俵屋」に生まれました。中江兆民に師事、万朝報社などの記者として活躍。社会主義運動にてい身し、多くの著書を残す。1911年いわゆる「大逆事件」の首謀者とみなされ、死刑に処せられました。しかし、これはデッチ上げ事件でした。


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 商工会議所から検察庁までは少し距離があります。その順路には、この史跡めぐりの第二回でも紹介した「一條鶴井公園」があります。この公園の前を流れる水路をさかのぼって行くと検察庁が見えてきます。

 幸徳秋水の墓の碑はこの水路沿いに建てられていますが、お墓はここから路地を奥に入った場所にあります。

 路地を入ると開けた場所にでます。あたりまえですが辺りは一面墓地です。ぱっと見ではどこに幸徳秋水のお墓があるのか分かりませんが、案内板が設置されているので、容易に見つけられます。

 幸徳秋水は、こぼれ話の本文にもあるように「大逆事件」の首謀者として死刑に処せられていますが、これが誤りであったことから、幸徳秋水の名誉の回復が叫ばれていました。
 中村市においては、平成12年12月議会において「幸徳秋水を顕彰する決議」が行われました。

**市長室こぼれ話 つづき**

 その墓から遠くない所に正福寺跡があります。この寺は、鎌倉時代の初期に法然上人が土佐に流罪となった時、中村の人々が建てたものですが、上人自身は中村までやってこず、讃岐に留まりました。寺は龍珠山正福寺と呼ばれ、浄土宗京都知恩院の末寺とされています。

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 法然上人が流罪になった事件、「建永の法難」には、後鳥羽上皇が深く関わっています。後鳥羽上皇といえば第二回の史跡めぐりで紹介した、「奥御前宮」の話にでてきます。
 この時はその息子の土御門上皇が中村に流されたという話でした。

 結局法然上人は中村には来なかったようですが、この時代は中村はやはり流刑の地だったようです。

 左の写真が正福寺跡の碑です。幸徳秋水の碑とすぐ並んでいます。

 浄土宗京都知恩院の末寺であった正福寺ですが、明治4年に廃寺になっています。

**市長室こぼれ話 つづき**

 次に高知県幡多総合庁舎の前には中村貝塚があります。この場所の地下5〜6メートルの地点から多数の土器、石器、貝殻などが発見されたのです。これは縄文時代晩期(紀元前500年頃)の貝塚で県下有数の規模です。土器は九州や瀬戸内地方で出土しているものと同じものが多くみられ、当時の交流の様子がうかがわれます。

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 幸徳秋水、正福寺の碑から南に数十メートル進んだ場所。高知県幡多総合庁舎の前に碑はあります。

 写真のように現在は水辺として整備されています。この場所から四万十川の水がくみ上げられ、山手通り、桜町の水路に流されています。


**市長室こぼれ話 つづき**

 次は一条公が作った祇園さんで親しまれている須賀神社です。ここには祇園社と海津見神社の2社が祀られ、祇園社にはスサノオの命とクシイナダ姫、海津見神社には海の神である海津見神が祀られています。

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 場所は四万十川の赤鉄橋のたもとですのですぐに分かると思います。しかし、中村貝塚からは少し分かりにくいかもしれません。


**市長室こぼれ話 つづき**

 次に31番目の史跡は一条神社の近くに戻って、土佐一条家土居跡です。土居とは土佐一条家の政庁のことで、愛宕山南端から北端に至る一帯を占めていました。これは江戸時代初期には、取り壊され上級武士たちの屋敷となっていました。

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 須賀神社から一条神社へは数百メートルの距離があります。一番分かりやすい順路は大橋通を東に進み、東下町を通り、天神橋を抜けるルートです。左上写真が須賀神社付近から大橋通を東に見たものです。

 天神橋のアーケードを一条神社の手前で北にでると、左下写真の通りにでます。

 土佐一条家土居跡の碑はここに建てられています。碑の立っている場所は現在は病院の駐車場になっています。

 ちなみにこの通りが本町になります。第一回史跡めぐりで写真を撮れなかった、「たて町跡」の碑がこの先にあります。

**市長室こぼれ話 つづき**

 中村史跡めぐりの最後は幸徳秋水生家(俵屋)跡です。俵屋は薬種業と造酒業を営む商家で秋水は4人兄弟の末っ子です。為松公園頂上には「秋水絶筆の碑」があります。

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 幸徳秋水の生家跡は京町にあります。第一回の史跡めぐりでこの近辺の史跡を紹介しています。
 現在この生家跡は普通の民家になっています。


**市長室こぼれ話 つづき**

 以上が旧中村町内史跡の主なものになります。このほか主な史跡としては、右山太平寺、不破八幡宮、安並石見寺、坂本香山寺、山内忠直五輪塔、四万十川古戦場などがあります。貝塚などの出土品は為松公園の幡多郷土資料館に展示されています。さらには八束の一宮神社、平野の鰐御前宮などの古い歴史があり、いつか和風の建物として中村古代史の博物館が建てられたらいいな、と思っています。

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