「中村史跡めぐり」、2003年12月の掲載に続き今回はその2回目です。
 今回も広報紙に掲載の市長のコラム「市長室こぼれ話」に沿って史跡を紹介していきます。
 今回元になる「市長室こぼれ話」はNo.38、平成16年2月号に掲載されています。
 写真は為松公園にある幡多郷土資料館です。今回はこの周辺の話です。

中村史跡めぐり 第一回
広報なかむらHP
史跡めぐりHP

写真撮影:2004/3/15


**市長室こぼれ話**

 中村史跡めぐりの2回目に進みます。今回は山手沿いの武家文化を中心に見ていきましょう。

 まずは史跡10番目の桜町です。山内三万石時代にはお城の近くですので家老たちの屋敷街があり、堀傍には桜が植えられていました。

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 「桜町」の史跡めぐりの石碑は市立文化センターの脇に建てられています。
 左下の写真が石碑の辺りから北方向を見たのもので、現在の桜町の通りです。現在は武家屋敷があった面影も桜も見ることはできません。

 また武家屋敷があった頃は、通りの西側には丸の内川が流れていて、現在のように建物は無く、その対岸が中村山内家の屋敷であったようです。次のページに地図を載せていますのでご覧になってください。

 


**市長室こぼれ話 つづき**

  次は幕末から維新にかけての剣豪樋口真吉の邸跡です。真吉は藩校(行余館)の指導者であり、武市半平太の影響を受け、幡多勤皇党を組織しました。

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 先程の文化センターから西に進み、突き当りを南方向に入った場所です。民家の庭先に史跡めぐりの石碑があります。ちょうど「中村病院」の裏側になります。

**市長室こぼれ話 つづき**

 12番目は土佐一条家の一門であった西小路氏の土居跡です。


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 こちらは文化センターから西に進み、突き当りを北に進んだところにあります。
 史跡めぐりの石碑は道路脇に立っていますが、現在その場所は空き地になっています。

 ここで「土居」という言葉が出てきますが、これは人の名前でも地名でもありません。
 もともと「土居」と言う言葉は”防御のためにめぐらした土塁”を指します。これが転じて、土塁を持つことの多かった土豪(その土地で勢力のある者)の屋敷を指す言葉として使われています。

 この通りには史跡が点在していますが、大きく分けて、一条家の室町時代のものと、江戸時代から幕末にかけての物があります。これらが混在しているので、ちょっと混乱しそうですが、ゆっくり見ていきたいと思います。
 ちなみに西小路氏は一条家の一門ですので、この史跡は室町時代のものです。

 この石碑のすぐ横に、少し古い石碑が並んで建てられています。この石碑には「中村目代屋敷跡」と標されています。目代は一条氏の頃から江戸時代の中村藩廃藩まであったとのことです。

 この古い石碑の立った後に、宅地造成をしたらしく、石碑の後半分ほどが壁に埋まった状態になっています。

 


**市長室こぼれ話 つづき**

 次は幕末の志士であった安岡良亮の邸跡です。良亮は樋口真吉に従って国事に奔走し、薩土密約に参画。維新後は新政府に仕え、後に熊本県令(知事)になりました。

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 室町時代から再び幕末志士の史跡です。
 安岡邸跡も今はこのように普通の民家になっています。

 ここで出てくる「薩土密約」ですが、土佐藩と薩摩藩の間で大政奉還を基盤として交わされた「薩土両藩王政復古盟約」のことで、この密約にはあの坂本竜馬が深く関わっています。


**市長室こぼれ話 つづき**

 次は、木戸明邸跡です。学問に秀でた彼は、京で学んだ後遊焉塾を開き、多くの人材を輩出しました。塾の傍ら、中村尋常中学校、高知中学、第4中学中村分校でも教鞭をとりました。

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 上の安岡邸跡から更に北に進んだ場所です。

 中村大神宮の隣になります。

 ここにも古い石碑が立っています。内容は同じものです。


**市長室こぼれ話 つづき**

 木戸明邸のすぐそばに行余館(藩校)が開かれていました。名称は門武館、敬上館、後に行余館と変遷しました。樋口真吉・安岡良亮などが教鞭をとり、明治5年の学制発布後は中村小学校となりました。

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 木戸邸跡と中村大神宮を挟み反対側に位置します。現在は空き地になっています。

 石碑の向こうに、幡多郷土資料館が見えます。


**市長室こぼれ話 つづき**

 中村高校の前の角には中村山内家土居・幡多郡奉行所跡があります。ここは中村山内家の政庁だった所で三万石の中村藩がありました。しかし、これは後に高知本藩に吸収され廃藩となったため、中村土居は幡多郡奉行所とかわりました。

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 更に北に進んで「中村拘置支所」の前。ここが中村山内家土居・幡多郡奉行所跡です。

 左下写真の奥に見えるのが県立中村高等学校の校舎です。

 ここにも新旧二つの石碑が並んで立っています。古いほうには「中村山内家屋敷・幡多郡奉行所跡」と標されています。


  ここで話は脇道にそれますが、ここまで紹介してきた史跡は全て通りの西側にあります。
 今この通りの東側の整備が行われています。

 左の写真が通り東側の整備の様子です。ほぼ完成し今は植栽の作業が行われていました。

 もともとここには深さ3mほどのところに川が流れていて、その上にふたをして歩道として使用されていました。この川は「丸の内川」という川で、市役所の南にある羽生山から市内を通り後川に流れています。
 左下の写真は今回整備されていない部分のものです。左上の写真の箇所も同じような歩道でした。

 この歩道だったふたを取り、丸の内川の上に新たに水路作り、四万十川から引き込んだ水を流しています。

 整備は3月末で完成の予定です。完成すれば四万十の水の流れを楽しみながらの史跡めぐりができるようになります。


 さて脇道は一旦終わって史跡めぐりに戻ります。
 今回はちょっと長いのでページを2つに分けました。

 つづき をご覧ください。

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