四万十川に架かる赤色の鉄橋、「四万十川橋」、地元では「赤鉄橋」の名で親しまれる、中村市のシンボル的な存在です。

 中村地区と対岸の具同地区を結ぶこの橋は、大正15年6月30日に竣工しました。竣工の祝賀行事は3日間にも渡り、中村の町はかつてないほど賑わいを見せたそうです。それは住民がそれほどに切望した橋の竣工だった表れでした。


 改修前の四万十川は毎年のように氾濫を繰返す「暴れ川」でした。四万十川の氾濫はその浸水による被害は言うまでもありませんが、交通手段を渡し舟に頼っていた当時は数日間対岸への通行ができなくなってしまうという状況でした。
 そして四万十川橋建設の引き金となった悲劇が大正4年に起こりました。その日は前々日から降り続いた雨で四万十川の水位はかなり高い状態。この日の夕方、対岸まで桑の葉を採りに行く、幡多郡立実科高等女学校(現中村高校)の生徒を乗せた渡し舟が転覆し、その生徒4人を含む11名が水死したのです。
 

 写真は岩崎町にある大正4年の事故の慰霊碑、他の3つの碑とともに赤鉄橋を見渡せる場所に立てられています。

 


 このような背景から、大正13年4月四万十川橋は着工されました。総工費は当時の金額で50万円。ちなみに大正15年度中村町の予算は92,827円でした(平成15年度中村市当初予算額:275億2,600万円)。

 こうして建設された四万十川橋は長さ約438m、有効幅員5.5m、建設当時四国一の大橋梁であったそうです。

 こうして大正15年6月に竣工した四万十川橋でしたが、昭和21年12月21日に発生した「南海大地震」により落下してしまいます。その被害は8つあるトラス部分のうち両端を残し6つが落下するという壊滅的なものでした。
 この復旧工事は昭和22年6月10日に着工され、翌23年の8月に完成。落下から実に1年8ヶ月後の復旧でした。

 この後昭和42年から歩道の架橋工事が始まり、昭和52年からは軽量化等の補修を行い現在の姿に至っています。

写真撮影 2003/9/3

参考図書
 四万十川赤鉄橋の町  著:金井 明