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人権コラム(令和元年5月号広報掲載)

更新日:2021年12月22日更新 印刷ページ表示

人権さまざま 164

 振り返ると、さまざまの体験に翻弄されてきました。

 生まれたときから戦争で国のために命を捧げよと教えこまれました。兄やおじたちの世代が毎日のように戦死の報道が伝えられ、二十歳になる前におれも死んでいくのだと当然のように考えていました。旧制中学には入っても、毎日の空襲を避けながらの通学でしたが、一学年の八月には敗戦。正義も気力もふっ飛ばされました。もうやめようと思った学校も戦争から戻った兄にさとされ惰性のまま、片道一〇キロの道を毎日歩通学しました。翌年には南海地震で町は潰れ、傾いた校舎の一教室に二〇〇人が詰め込まれ床に座っての授業を受けました。やんちゃ盛りの男の子らが学習に精出すはずがなく、毎日蜂の巣をつついたような授業状況でした。

 学制改革で、旧中学校は新制中学となり三年で卒業でした。

 春休み部落での漁に行き、帰り着くなり全身が針を刺すような疼きに襲われ泣き叫びました。一晩過ぎてもどうにも癒えない体を、リヤカーに乗せられ、校医の病院に入院、全身を冷やすだけの手当で何日も悶え苦しみました。何日かが経ってようやく痛みが少しずつ間遠になった頃、やっと原因が分かり「バイ菌が侵入して右足の骨を腐らせ始めた」と告げられました。

 春休みは痛みのままに終わり、外科手術で足首の骨を削り一年間の休学。結局全快しないまま医療費も心配なので退院。その後も癒えない傷口のまま一〇年間。障碍者手帳をもらい、スポーツのできない体になりました。できることは読書だけの身体になりました。

 後年、資格を得て教員に採用されましたが、親達に「本好きの子にするにはどうしたらいいかとよく訊かれました。私は「足の病気をさせてみたら」などと、不謹慎な言葉で答えたことさえありました。全てマイナスばかりだったと思い込んでいた事柄も少しはプラスもあったのかなと思えるようになりましたが、でも、もう二度とあの少年時代に戻るのはご免だと強く思っています。人生の試練はその後も何度となく襲ってきました。くじけたら一巻の終わりです。あのときの痛みを思い出しては、いつも明日をめざし、諦めない、止めないをモットーに、ヤモメになった現在も、懸命に生きているところです。

四万十市人権啓発講師
山本 衞