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人権コラム(令和元年9月号広報掲載)

更新日:2021年12月22日更新 印刷ページ表示

人権さまざま 168

 わが国では、世の中のことを言い表すのに、社会と言ったり、世間と言ったりするふた通りの言葉があります。この二つを使い分けて暮らしているのが特性だともいわれてきました。

 このふたつ、どこが、どう違うのでしょうか。

 社会とは、世の中のルールを作って生きることを示す「公」の言葉として、明治以降に新しく作られた日本語のひとつです。法律や行政に支配を受けている世界(国や県等)だともいえます。

 一方、世間とは、隣近所の顔見知りや親戚などが存在する世界です。ルールやきまりなどが、あるようで無いようで、親達(目上の人たち)から、そんなこたぁ世間では通らんぜよ、といわれてしまうと、たとえ理不尽でも黙り込んでしまわねばならない世界が、世間なのです。

 たいていの人が一度や二度、この言葉で黙らされてしまった体験もあるかと思います。

 この二つをうまい具合に使い分けて、日本は成り立ってきた世界だといえます。これに従い(納得)するか、反発(反抗)するのか、人々は苦しんできたともいえます。

 長いこと私どもが格闘してきたことに同和問題があります。法律(社会)では百数十年も昔に「無くなった」となっていましたが、世間はなかなか納得するのに時間がかかりました。

 また一方ハンセン病は、今では風邪にかかった程度の病だと証明されているにもかかわらず社会の方が人々を恐怖のどん底に落とすような法をつくりだして国民を苦しめました。病人を隔離するやり方を長年にわたり続けてきました。社会のつくった罪悪です。小泉首相時代、政府の責任として決着をつけました。しかしながら病人達の家族の苦しみにまでは思い至らず、令和時代になって漸く国が謝罪と賠償の責任があるとの判決で、社会全体も間違っていたことをわからされました。

 「社会も世間も」国民一人一人の謝罪が必要だと言われたことになります。わが国が、器用に?使い分けてきた世界を、きれいさっぱり解消する時代がきたということです。「世間」を振りかざすやり方をやめ、真のルールにのっとった地域社会を建設することを国も個人も共に尊重する時代を教えられたのだと思っています。

四万十市人権啓発講師
山本 衞