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人権コラム(令和元年10月号広報掲載)
人権さまざま 169
令和になって初めてか、と思うような記事が高知新聞に掲載されました。最近の同和問題を論じた記事で、山口県の人権啓発センター事務局長の『ネット時代の部落差別』と題した論文です。(7月24日付け)
私も若かった頃は国民的課題といわれた同和問題を一から必死に学習しました。仕事上もその解決に日夜を分かたず取り組みました。その甲斐?あってか〈国民一同の努力の結果〉同和問題は解消とまでは行かなくとも、おいそれとは元の時代に戻らないだろうとすっかり安心しきっていました。新聞もすっかり落ち着き払っていたに違いありません。そんな矢先のこの記事でしたので、寝ぼけ眼を叩かれる思いで目が覚めました。
論文によりますと、差別はなくなりどころか高度な学習能力を身につけ、超近代的な姿になって、一介の老いぼれでは手も足も出ないほどの状態だというのです。
私の時代には「どこやらのオンチャンがこういうた、オバヤンがこんな差別をした」という次元の話でしたのに、現在は目で見ることもできないような、インターネットで全世界に差別をばらまいているのだ、と書かれています。ツイッターやフェイスブックなど、みたこともないものが身近に登場し爆発的に拡散したデマや偏見が悪口〈ヘイトスピーチ〉をばらまいているといいます。一冊見つかってさえ大悪の『部落地名総鑑』も堂々と刊行され、部落出身者にいたるまで、暴き晒し続ける差別暴動がなされていると言うのです。老人の私には全く思いもよらないものでした。
あのころ全身全力で差別解消に立ち上がっていた人たちの功績を真っ向から踏みにじって余りあるものだといえます。
人は万物の霊長といわれています。そのためには「恕(じよ)」の心を養えと孔子も数千年も昔に教えています。霊長になるため磨くのは〈こころ〉です。でも、心はコロコロころがってじっとしていてくれません。それでも私はもう差別する側の人間にもどりたくありません。誰かのためにそうするのではなく、自分自身の成長のためにです。
若い方々よ、どんなエライ人間でも人を差別する権利は誰にもありません。いつまでも人間であるため老人もがんばって生きていくつもりです。
四万十市人権啓発講師
山本 衞