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人権コラム(令和元年11月号広報掲載)
人権さまざま 170
私は二番目の姉が大好きでした。小学校に入れば毎日一緒に通学できると楽しみにしていましたが、姉は卒業し、隣町の高等科(現中学)に入学。入れ違いになったことが残念でなりませんでした。姉たちは庭続きの祖母の隠居所に泊まるのでそこに行って、高等科の話を聞くのも楽しみでした。ある日クラスメートの男の子の可愛い(今のイケメンの)かなしい話を聞かされました。〈誰にも言うたらいかんぞ〉と念押しして、その子がライという病気になり親兄妹から引きさかれ瀬戸内の離れ小島に連れて行かれたことを聞かされました。ある日突然に、屈強な大人たちが学校に現れ、叫びながら逃げ惑うその子を捕まえていったというのです。
何とも辛い話でした。その後何日も私はその子の身の上を案じ、悲しみが放れませんでした。誰にも言えず「ライ」の恐ろしさに身震いもしていました。
中学に入って病気になった私は図書室によく行きました。そこで北条民雄というライ患者の小説家を知り、作品をむさぼり読みました。幼かったときを思い出し、何度目かのビクビクも深く味わいました。今の医学から考えるとホントウに重大な過ちのまま何年も苦しんだことになります。
後年教員となり、社会教育を十数年担当しました。主な課題は『同和問題』の解消でした。
九州の大学教授だった林力さんを何度か講師に迎えました。講演後の雑談で父親がハンセン病で療養中との話を聞かされ、恐ろしいライがホントウは風邪よりも軽い病気であることも教えられました。幼い頃から一人で苦しんだことは何だったのか、目を見開かされました。
2005年、熊本地裁の歴史に残る判決で国もライへの偏見を猛反省させられ謝罪もしました。そして十数年、患者の家族への補償もせよの判決も下され、国も即刻受け入れました。その全国家族会の原告団長が林力先生でした。90歳を越えたというTV画面の、すっかり白髪となった林さんに涙が止まりませんでした。私の生涯にわたってウソの情報に振り回された無念さは悔やんでも悔やみ切れません。姉は亡くなりましたが、晩年、あの少年が今も元気で、全国的に活躍されていると教えてくれました。わが事のように安堵し喜んでいます。
四万十市人権啓発講師
山本 衞