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四万十市内の山・渓谷について
山・渓谷 Sightseeing Spot
黒尊の紅葉
紅葉の見頃は11月初旬~11月中旬頃
交通:JR予土線江川崎駅から車で1時間30分
高知自動車道四万十町中央ICより2時間20分
駐車場:30~40台(無料)
不動の滝
※アクセス時間 中村駅より車で50分
お菊の滝
「番町皿屋敷」の基になった伝説は播州(現在の兵庫県)が有名だが、西土佐奥屋内にも「幡州皿屋敷」の伝説が残っている。
約300年前、伊予松山藩の武家に育ったお菊は、夫と共にお家騒動を逃れて奥屋内にたどり着いた。しかし、夫は病状に伏し、お菊は地元の庄屋で奉公を始める。ところが庄屋の甥、鉄三郎がその美しさを見て横恋慕した上に、お菊に拒まれたことを逆恨みする。そして、家宝の皿10枚のうち1枚を隠してお菊に責任をなすりつけた。無実の罪を着せられ、責め立てられた彼女はそれを苦に、ある晩滝から身を投げ、命を絶った。
その夜からお菊の亡霊が屋敷中に現れ、鉄三郎はお菊の亡霊を見て気が狂い、自らの目を刀で切りつけてしまう。その後もお菊の亡霊に取り付かれ、妻や子どもまでをお菊と間違え殺してしまい、目の病に苦しみ死んでいったという。
その後、村人たちは九州・星野神社を迎えお菊の霊を祭り、亡霊は出なくなったという。
現在はこの滝のそばにお菊をイメージした観音像が立っている。たった1枚を隠されたためにお菊が命を捨てたという皿の残り9枚が、四万十市楠島にあるそうだ。
白綾の滝
源を松平山(ホケが森)の山麓より発し、第一の滝(鍋の滝)を経て、白綾の滝となっている。
滝口より高さ10m余を懸崖直下(けんがいちょっか)する流れは、滔々(とうとう)と飛瀑(ひばく)する。
繁木に覆われうっそうの中に虹を描く様はまさに天下一品である。
遠き昔、天保八年(1837年)宇和島藩主様も遊山され、その節に道を作る為に村人がうがって割り落とした巨石が滝壺にあると云われている。滝の正面上絶好の場所があり、ここに佇めば瀑風の為、夏も寒さ覚える程である。
滝の上部の旧道脇には古人から祭られている滝の宮様があり、清浄無垢(しょうじょうむく)の霊山として、郷人の崇敬深く、春秋の祭儀が催されている。
交通:車で国道381号線の西土佐江川本村から江川川沿いに5km上流へ
君が渕
壇ノ浦の戦いに敗れ、源氏の追討ちを逃れた平家の落人の一行が、敗将の奥方である姥御前を守りながら野稲尻の奥に身を隠した。
その中の若武者・平幸太郎は、この地に降りて百姓となって暮らすうち、「この里の姫百合」と噂されていた美貌の娘、お君と深い仲となったが、階級の厳しい時代のため結ばれるすべもなく、前途をはかなんだ二人は駆け落ちを約束した。しかし、約束の日、お君の両親がお君の行動に気づき、逃避行の夢は無惨に崩れ去る。
この噂がたちまち広まり、幸太郎も肩身が狭くなり、この里へ永住するのも忍びなくなった。護衛をしていた姥御前もすでに亡くなっていた。源氏方の探索の噂にもおびえたであろう幸太郎は、お君を想いつつも、連れ出す勇気もなく、江川の里から姿を消した。その後の幸太郎の消息は明らかではないが、ある説によると、関所に囚われの身となり非業な最期を遂げたといわれている。
一方、幸太郎の失踪を知ったお君は生きる希望を失い、世を恨み、齢18にして断崖から身を投げ命を絶った。
その後、この渕を「君が渕」と呼ぶようになり、森の頂にはお君を慰めるために祠が建てられた。
里人に慕われた姥御前は、神として氏神に祭られた。これには裏づけとなる遺跡がある。
平家の末裔は、長くこの土地にとどまって「平家」と称する所在を作った。平家村の「平」がいつの頃から「半」にかわり、半家村と呼ぶようになった。
※西土佐村史より抜粋
新玉様のモミの木
壇ノ浦の戦い(1185年)に敗れ、壊滅した平家の落人たちのうち、ある者は四国の山中奥深く潜入した。
西土佐津賀に新玉神社として祭られている新玉丹後も、その一族の兵であった。3人兄弟の末弟の丹後は弓矢の名人で、およそ700年前、この地方の深山に出没する魔人と激しい戦いの末、ついに退治して村人を守ったが、自分も力尽き命を落としたという。ここに丹後の霊を祭る新玉神社(荒若神社ともいう)の神木として、巨大なモミの木となって、今に丹後の精神が生き続けている。モミの木は2013年8月に倒壊し、残念ながらその姿を見ることはできない。
昭和63年(1988)年
第4回自然環境保全基礎調査
樹別ランキング全国第1位
幹周:7. 8メートル(地上1.300m) 直径:2.50m
樹高:27m(推定) 樹齢:300年(推定)
※西土佐村史より抜粋
四万十市の植物
四万十市や四万十川流域に生息する植物を紹介しています。
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