広報しまんとコラム 「人が人らしく」  平成29年11月号 

★人権さまざま★ 151

   人権に貢献した世界のジャーナリストをまとめた本『歴史を作った報道人』を、見たことがありました。その中で菊竹六鼓という人物を忘れられません。
 
 菊竹は福岡日日新聞(現・西日本新聞)の編集局長兼主筆。戦前の厳しい時代、言論弾圧にペンをもって闘い続けたジャーナリストとして知られた方だといわれています。
 
 一九三一年「満州事変」が起き、日本は一五年にも及ぶアジア太平洋戦争(大東亜戦争とも称した)に突入していきました。それまで軍縮を訴えていたマスコミはこれを機になだれを打って軍部に迎合、侵略戦争の旗振り役となってしまいました。
 
 しかしながら菊竹は、孤立しながらも、福岡日日新聞の社説でファシズム台頭のおそろしさに強く警鐘を鳴らしました。
 
 菊竹の警告は的中しました。翌年五月一五日、軍人らは首相官邸に侵入。「話せばわかる」と説得する犬養毅首相に「問答無用」と凶弾を浴びせました。世に言う「五・一五事件」です。
 
 菊竹は「首相兇手に斃る」、「敢えて国民の覚悟を促す」、「憲政かファッショか」など、軍部ファシズムに反対する社説を次々に発表しました。その内容は、「不届きな軍人が政治改革を口実に首相を虐殺したのは、国家を壊滅させることが狙いだ」。「他の新聞の論調は、何者かを恐れ縮み上がって自分の意見を率直にいえないようだ、だが、こういう場合に言うべきことを言わず、すべきことをしないのは決して新聞記者の名誉ではない」などというものでした。
 
 もちろん軍人や右翼が黙っているはずはありません。彼らは脅迫を繰り返しましたが菊竹は「新聞社はつぶしてもよいが、国家をつぶしてはならない」と屈服せず、社運を賭け、断固として主張を貫き通したといわれています。
 
 当時こうした軍部への抵抗はまさに命がけで、投獄されたり拷問を受けたりする思想家達も数知れないものでした。
 「新聞というものに成すべきことをしたという安心感があります。こうした努力があったことをお前さま一人だけでも知ってくれるほど嬉しいことはありません。」と娘への手紙を遺しています。
 
 昭和12年(一九三七)結核のため逝去。享年五七歳。
 
   四万十市人権啓発講師   
         山本 衞
 

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