広報しまんとコラム 「人が人らしく」  平成28年10月号 

★人権さまざま★ 138

   東中筋保育所の人権発表に携わる機会を得て、国見村の義民・中平宗兵衛を思い出しました。宗兵衛は三原村の出自で、元禄と改まった時代、中筋川や渡川の氾濫で辺りが衰退の一途を辿っていた頃、国見村庄屋として赴任しました。当時は公的な救済の道はほとんど無く住民を励まし自らも先頭に立って地域の復旧に努めました。藩庁に願い出て、浸水により農業に適さなくなった耕作地を、捨て地(免租地)となるよう、寝食を忘れて奔走し、許可されたのち改めて開拓に励みました。(この免税地は明治9年の地租改正まで二百年間無税であったといいます)

 元禄13年6月、またしても襲来した暴風雨に、収穫は皆無、翌年もその翌年も台風は休み無く住民全てを脅かし、16年の春頃から飢え人が続出、不破村に救い小屋まで建てられたほどでした。超低湿地の国見村の農民の困窮は実に言語に絶するものでした。藩では水害その他の災害には検見と称する実態調査が行われました。科学的な調査には程遠く、地域により人により、客観的なものばかりではなかったとも想像されます。いわゆる「魚心あれば水心」式の手心に不公平感も多かったのでした。

 中平宗兵衛も名主としてなんとか住民の負担を軽く出来ないかと苦心し、心通い合う村人弥助と相談の上、凶作の一段とすすんでいた耕作地を検見役人に偽って検見させてしまいました。それが露見し役人の怒りを買い、伊予まで脱走を試みたものの捕らえられ高手小手に縛られ高知まで護送されました。途中、ふるさと国見村にさしかかると住民たちは宗兵衛の姿を伏し拝み、涙ながらに見送ったといわれます。城下では斬首の刑に処せられ、寛永2年2月12日、その生涯を終えました。

 死後、さまざまの伝説が遺され、人々の新たな涙を誘う物語も多く残されています。
 
 その後国見村はその徳を慕い宗兵衛の霊を祀り、社殿を建て氏神「若宮神社」として今も人々の尊崇を受けていると言われます。昭和5年彼を後世に伝えるべく、地区長国見計太カはその業績を書き遺しました。今回友人O氏の力添えでそれを基にこの小文を書くことが出来ました。深く感謝しています。
 
   四万十市人権啓発講師   
         山本 衞
 

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