広報しまんとコラム 「人が人らしく」  平成27年2月号 

★人権さまざま★ 118

   ハンセン病は、百年もの長い期間、国が誤った隔離政策を続け、差別を助長してきました。
 今では完全に治る病であり、伝染病と言っても、流感程度の感染力もないと言われています。なぜこんな誤解がまかり通って来たのでしょうか。

 間違った理解の仕方で人々は怖れ続けてきました。殊に日本が明治を迎え、欧米に肩を並べ近代国家を目指すにあたって、ハンセン病は国辱とまで考えるようになりました。

 1907(明治40)年「癩予防ニ関スル件」を公布し、予防策を審議した際、「隔離」することが最善の方法だと決めつけられました。日清戦争に勝利した日本が、アジア・アフリカの植民地並みの患者が居ては最大の恥辱だと、強制隔離政策をいっそう推し進めることになってしまったのです。そうして年々エスカレートしていきました。療養所の所長以下職員には警察官出身者が採用され、懲戒検束規定が明記され、大正時代には全生病院長(光田健輔)のもとに、男性入所者の断種手術が公然とおこなわれ、他の療養所にまでも広まっていきました。

 職員不足を補うため、入所者は強制的に働かされました。重症患者の付き添い看護、包帯・ガーゼの洗濯、清掃、屎尿の汲み取り、散髪、木工、土工など重労働でした。

 昭和時代に入り、「癩予防ニ関スル法律」で、さらに強められていきました。患者運動弾圧のための重監房まで設置、まるで重罪人の拷問のやり方にも負けないほどの仕置きが国をあげて実行されてきたのでした。

 行政や医療関係のみならず、国民の一人ひとりに至るまで、ハンセン病者の心の内まで理解するものは、誰一人いないという時代が、戦後になってさえ続けられ、人権尊重を適用されることは全くありませんでした。

 そんな中にあっても患者の心に分け入り、生き甲斐や力を与え続けた人もありました。幡多出身の詩人大江満雄は50年もの間、患者への詩の指導を続けた人でもあります。(四万十河畔に詩碑が建立されています)。

 無知ほどこわいものはありません。熊本地裁の判決で、ようやく国が謝罪したのが僅か十年前です。患者にはもちろんのこと、出身地域までも差別してきた私たちも、心から深く詫びねばならないものと考えています。
 
   四万十市人権啓発講師   
         山本 衞
 

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