広報しまんとコラム 「人が人らしく」  平成26年3月号 

★人権さまざま★ 107

   江戸幕府を開いた徳川家康は「征夷大将軍」とよばれる身分でした。徳川政権は、初代家康に始まり一五代慶喜で終わり、明治とともにその呼び名はわが国から消滅しました。
(因みに、この役職は桓武天皇が大伴弟麻呂を794年に任命したことに始まり慶喜は 番目の将軍でもありました)。

 名称の由来は〈夷を征伐する軍の大将〉という意味ですが、夷とは、中国人の中華思想を表した言葉から生まれたものです。昔から中国は世界の中心にあると考え、周辺の東西南北は未開の民族ばかりと決めつけ、東夷、西戎、南蛮、北狄、などと蔑んできました。日本列島全体は東夷の国でした。

 わが国にこの思想が伝わると京都の政権は、東に位置する人間を蝦夷と称して差別し服従させる政策を行ってきました。

 夷の漢字を分解すると、「一と弓と人」となり、「手を一杯広げて弓を引いている人」つまり狩猟の民を表しているといわれます。世界の歴史を考えると農耕民族が遊牧民族や狩猟民族を圧迫する連続であるともいえます。日本列島でも同様で縄文とよばれている時代には、山や川を駆け巡って狩や漁をすることが主な仕事でした。そんな時代の後半には稲作りが伝わり、あっという間に列島を支配する弥生時代が始まります。米は他の穀物より栄養分に富み何年間も保管が効き、何とでも交換できました。ところが稲作りには、さまざまな重労働を必要としました。特に山地の多い日本では、個人では立ちゆかず、集団で田を作り、水を引き込み、水を防ぎ、わがままは許されません。米のために否でも応でも協力が必要でした。そのため土地や人間の奪い合いが始まり、米(富)を蓄え、他との交換という経済も生まれてきました。

 経済の本質は、誤解をおそれずに言えば攻撃です。他者よりも、少しでも多くの富を得たい衝動に駆られ、さらなる耕作地の拡大を図り、狩猟する人々の土地へ進出し、彼らを従わせ、自分達の懐を増やします。限度を知らない膨脹と侵略に狩猟民は激しく抵抗していきました。これへの対抗手段としても蓄えた富を使って専門の武装集団を雇い入れていきます。その総指揮官が、征夷大将軍という身分を獲得して、頂点に君臨したのがこの役職だったのです。
 
   四万十市人権啓発講師   
         山本 衞
 

▲ Back
Copyright Shimanto-City Office All Rights Reserved