広報しまんとコラム 「人が人らしく」  平成25年3月号 

★人権さまざま★ 95

   子どもの頃、中学校は中村で、およそ二里半(10キロ)の道を歩いての登校でした。無舗装の砂利道はまことに歩きにくく、新しいわら草履は二日目の帰りにはすり切れて、いつも裸足でしたが、辛いとも思わなかったのは、戦争時代だったからなのでしょうか。

 近隣の畑では知り合いの人たちが梨をもいでいて、中でもとびっきりやさしい姐さんは、決まって声をかけてくれました。「梨でも食べて行かんかよ」

 ポケットいっぱい梨をくれるのですが、姐さんに頼んだのは「ちょっと傷になったがでええけん」というと、「さすがにうまいがを知っちょるねえ」と笑ってわたしてくれるのでした。

 梨も柿も、(たぶん林檎も、でもあの頃林檎は口に入りませんでした)、傷のあるのがうまかったのです。きれいな売り物は遠慮してという思いもないではありませんでしたが、果物は傷物こそおいしさ抜群だったのです。

 成長して後には、人間もそうではないかと思うようになりました。全く傷だらけで取り柄のないのは別として、逆に、完全無欠の人格は寄りつけない気がしたものでした。

 非の打ち所のない人がいるとしたら、どんな人なのでしょうか。お目にかかったことなどありませんが、いたとしたら、味も素っ気もない人なのではないかと想像しています。

 昔の先輩たちは、学帽のてっぺんに靴墨を塗り込んで、てかてかに(汚した)帽子をかぶっていました。今でも同じ風潮なのか、ジーパンをボロボロにしたものを粋がって穿いて、わざわざ崩れたものを好む傾向があるようです。時によりけりかも知れませんが、完全無欠なものには味がないということを示しているのかも知れません。

 どこか傷のある(苦労した)人格にこそ、人は魅力があると思うのではないでしょうか。

 子ども虐待のニュースがマスコミに絶えることがありません。親たちは百点満点の子どもをと思いすぎてはいませんか。大人が完全でない以上に子どもは不完全極まりない存在です。どの子もみんな傷を受けながら、それを癒やし、癒やしてもらいながら甘い果実(りっぱな大人)に成長していくものだということを忘れないでとねがっています。

 
   四万十市人権啓発講師   
         山本 衞
 

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