三陸海岸の津波復興事業から学ぶ
 あの東日本大震災の巨大な津波災害から6年が経過し、大きな津波被害を受けた三陸海岸の各集落も漸く復興の路を歩み始めた。今日は最大被災地の一つ宮古市田老地区を見てみよう。
 この田老は明治以来3度の大きな津波被害を受けてきた。明治29年(1896)6月15日の明治三陸地震の津波の時は、田老では標高14.6mまで海水が揚がり、乙部地区を含む田老の集落総戸数335軒の全戸が流失するという壊滅的な被害に見舞われた。死者は1,812人とされ、当時田老に住んでいた人の約83.4%が死亡したことになる。生き残った人というのは当日漁で沖に出ていたり、旅行中であった人たちだけであったと伝えられる。昭和8年(1933)3月3日の昭和三陸地震の津波の時には、田老では362軒のうち358軒が流失するという再び壊滅的な被害が起きた。このときも763人の死者を生じた。これは全住民の42.5%が死んだことになる。
 その後、町民自身の自助努力によって標高10mの防潮堤が作られ町全体を取り囲み、昭和三陸津波ならば完全に守ることができるとされた。それに加えて背後の高所に上る避難路が造られ、明治三陸津波と同じ津波が再来したらこれで逃げよと教えられてきた。しかし、2011年の東日本震災の津波では標高18mまで海水が揚がった。津波は高さ10mの防潮堤をやすやすと乗り越え再び田老のほとんどの家屋が全壊流失し、185人が犠牲となった。防潮堤は役に立たなかったわけではない。防潮堤に囲まれた街区では津波は浸水したが、津波のエネルギーを大幅に削減し、多くの人は生き延びることができたのである。
 あの日以後、田老町をどのように復興するかのプランが検討され、住民説明会が頻繁に開かれた。その結果、裏山を切り開き、ここに新しい住宅地を作って町全体を標高50m以上の土地に移住するということに決定した。こうして現在田老町は町全体が標高50m以上の新しい住宅地に移転して、永久に津波の心配をしなくて済むようになったのである(図1、および図2)。なお、津波に襲われた旧市街地は、水産工場、コンビニ、ガソリンスタンドなどに利用され、一般家庭の住居、学校、保育園、老人養護施設などは建設が禁止されている。

写真1 2011年東日本震災津波の被災1ヶ月後の田老 堤防は無事だった。堤防の外側の市街地は完全に消滅したが、堤防の内側は家の材料はその場に残った。


図1 津波前の田老町 裏山が削られて
   新たに住宅地を作ることが計画された

図2 新しい住宅地が描かれた現在の田老町
   新しい住宅地の標高は50m以上である

写真2 建設中の田老町の新市街地 一番手前の道路で標高50mである。2015年11月筆者撮影。



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