安政南海地震(1854)の中村での死者分布
 紀伊水道から四国の南方の海域を震源とする南海沖の巨大地震はおおまかに100年間隔で起きているが、一つ前の昭和21年(1946)南海地震(マグニチュードM8.4)のことは後に述べるとして、今回は、2つ前の南海地震である幕末の安政元年(1854)南海地震の中村の地震被害について見ておこう。当時、中村の目代(もくだい、現在の市長に相当する)であった横田金次郎が郡奉行所に差し出した記録には、中村ではこの地震によって全部で29人の死者が生じている。このころ中村は8つの町から成っていたが、町毎の死者数は本町が13人、上町が3人、紺屋町が1人、中新町が3人、本新町が5人、京町が4人、今新町は死者無し、下町が1人である。さて、ここで難問に直面した。江戸時代幕末の安政元年(1854)にたとえば、「本町」、「上町」あるいは「紺屋町」と呼ばれていた場所は今の地図のどの範囲なのであろう?平凡社の「日本歴史地名大辞典」の『高知県の地名』の中村の項目を調べると、幕末・明治期の「本町」は現在の本町2丁目から4丁目、「上町」は本町4丁目から5丁目、「紺屋町」は京町4丁目から5丁目、「中新町」は「本新町」ともに「中ノ町」となって、その北半分、「本新町」はその南半分。その「中ノ丁」はで現在の京町2丁目から4丁目あたり。幕末期の「京町」は現在の京町1丁目から2丁目、「下町」は現在の大橋通1丁目から2丁目、東下町、弥生町であるという。
 これでわかった! あとは楽勝と思ったが、まだまだ難問の後半戦が待っていた。現在の四万十市の中心街の中村のなかの「町」は、全国の他の市のように、1つの町の境界の大部分が道路と一致していないのである。壁を接し合う隣同士の2軒が別の町に属している、なんて当たり前。これは「一つの道路の両側は同じ町に属する」という、江戸時代の伝統を中村が守っているからであろう。例えば、東下町の境界線はあまりに複雑で調べているうちにほとんど気が狂いました。さて、まる2日の私の労働力を投入して、中村の現在の町名区画が分かりました(図1)。この図が出来ると、安政南海地震(1854)当時の中村を構成する8つの町の範囲がおよそ図2のように推定できて、その各町の範囲で生じた死者数を丸で囲んだ数字で示しておいた。
 死者が多く発生したのは、本町、上町、本新町、京町、中新町の範囲で、現在の地図の本町2丁目から5丁目、京町1丁目から4丁目までの範囲であったことが分かる。当時の今新町、現在の新町1丁目から3丁目までは死者無しであった。また下町にあたる大橋通1丁目、2丁目東下町、弥生町は、この広い範囲で死者は1人に留まった。なお、本町と西の山に挟まれた丸の内、桜町、小姓町などは江戸期には武家町であったがここでは死者は生じなかった。
 ここで明らかになった死者が高密度に生じた本町2〜5丁目、京町1〜4丁目に現在住んでおられる人は早急に自宅の耐震補強されることをお勧めする。
 [追記] 現在の市長にあたるひとの江戸期の呼び方は「大庄屋」、「代官」などが普通であった。「目代」というのは平安時代から鎌倉時代までの遙任 国司(現在の知事に当たるが、本人は京都にいた場合が多く、このような国司を遙任 国司という)が、支配国の現地に置いた代官のことであって、室町時代以後には使われなくなった。この古い用語が、幕末期まで全国でたった一つ四万十市にだけ化石のように生き残っていたのである。

図1 江戸期にすでに町人の住む町であった地域の現在の町名区画
 この範囲の西側の山の麓までは、武家の居住地(桜町、小姓町など)でここは被害が少なかった。

図2 安政南海地震(安政元年、1854)当時の中村の町人町の範囲と、各町での死者数(丸で囲った数字)、現在の本町2丁目から4丁目で12人もの死者が出た



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