安政南海地震津波(1854)と宝永地震津波(1707)
 四国の南方沖合の海域では、おおよそ100年に一度の間隔で南海地震と呼ばれる巨大地震が起きており、そのたびに四万十市を含む四国の海岸地方には大きな津波が押し寄せてきた。一番最近の南海地震は昭和22年(1946)に起きた昭和南海地震である。その次に古い南海地震は幕末の安政元年(1854)に起きた安政南海地震、3番目に古い南海地震は宝永4年(1707)に起きた宝永地震である。昭和南海地震は、比較的規模の小さい南海地震であって、マグニチュードMは8.0であった。安政南海地震はいわば「標準サイズ」の南海地震であってM8.4と推定されている。地震の規模を表すマグニチュードMは0.2数値が大きくなると規模は2倍になる。したがって安政南海地震の規模(M8.4)は昭和南海地震(M8.0)の2倍の2倍で、約4倍の規模があったことになる。さらに宝永地震のマグニチュードはM8.6とされており、安政南海地震のさらに倍の規模があったことになる。南海地震はどれも巨大地震なのだが、昭和南海地震は「小粒」、安政は「標準」、宝永地震は「超巨大」であった。
標準の安政南海地震の津波と、超巨大の宝永地震の津波の違いを土佐清水市の下ノ加江川を遡った津波の到達点で比べてみよう。安政南海地震の津波の時、下ノ加江川を遡った津波は、河口から約3kmの五味神社の石段5段目まで来たと伝承されている。この高さを測定してみると標高7.8mであった。いっぽう宝永地震の津波は『谷陵記』に「海岸から一里の苣ノ木まで」と記録されている。ここで見慣れない「苣」という野球のチームの名前にくさかんむりのついた漢字が書かれている。漢和辞典で調べると、これは「ちしゃ」と読んで、楕円形のやわらかい葉を付ける樹木のことで、昔は葉をレタスのように食べたそうだ。そこで、「苣ノ木」は今の地図のどこに当たるかを土佐清水市の教育委員会、あるいは下ノ加江川の上流の市ノ瀬や市野々の人に尋ねても誰も知らない。やっとたった一人、市ノ瀬の自動車修理工場の70歳を越える年配の方だけがご存知であった。そしてそこでの川の水面の標高を測量した結果12.1mと出た。「標準」の安政南海地震が津波標高7.8m、「超巨大」の宝永地震の津波が12.1m。次の南海地震の地震が来たら、それが「標準」か「超巨大」かはすぐには判らない。けれどもし「超巨大」であっても命は落としてはいけない。最低標高12.1mより高いころへ逃げよ、という教訓を読み取ることにしたい。



戻る