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長じて兄一豊を助けて戦功を積み、一豊が諸臣を率いて土佐に入国すると康豊は幡多二万石を与えられて中村山内家をたてた。 慶長10年(1605)9月20日一豊が歿して康豊の長子忠義が統を継いだが幼少であったので康豊は後見として高知に出た。寛永2年(1625)8月19日、77才で卒した。法光院殿と贈り名し高知要法寺に葬る。康豊の妻(信州水野出羽守の妹)の墓(遺髪ともいう)は中村小学校前の旧蓮光寺跡にある。 |
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薫的は獄にあること7年(寛文6年(1666)8月投獄、在獄5年の異説もある)その間、指を噛み切って白衣に経文を血書し、或いは絶食を続けなどして必死に苦節を守り、寛文10年(1670)秋自殺を企てて絶食49日に及び、ついに寛文11年(1671)正月10日跌座のまま憤死した。47才であった。 東山小学校の谷(いやん谷)に大岩というのがあり、昔より石仏三体を祭ってあったという。そこに薫的の母の清川さんの霊を祭ったものであり、その後薫的親子を祭るようになったものと思われる。建物は明治29年(1896)旧5月27日の建立である。 |
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特に当時郡下には疱瘡が大流行し、彼はその権威者として大いに活躍し、その為幕府から14回も褒賞せられており、文化11年(1814)上下二人扶持をたまわり、さらに文政9年(1826)には御歩行格まで昇進している。天保元年(1830)5月25日歿、行年78才。 墓は下田、弘田家墓地にある。妻の名はてい。 |
泰然の嗣子を幼名駒太郎のち泰然(駿祥)という、学問を父泰然に学び家業をついで医を業とした。 |
一条家(京一条家か)の愛顧をうけて、九重の四股名を貰ったという。腕もあり義侠もあって帰郷後はよく後輩の面倒を見、不幡八幡大相撲の世話方万端を支配したという。慶応元年(1865)8月14日歿。行年75才。角万中平家の先祖である。 |
中村は、鶴鳴が出てから中村文学(幡多文学ともいえる)は復興し、幕末維新に際して樋口真吉、遠近晋八、安岡良亮、藤本淳七、山崎慎六郎、木戸明等幾多の人傑を門下から出した。天保15年(1844)9月7日50才で歿した。 |
なおお清はのちに養子清平と結婚し、弘化元年(1844)には長男亀助をもうけている。 明治22年(1889)5月6日死、行年74才。墓は石見寺南西やゝ下の方にある。 |
安政4年(1857)5月10日死亡。墓は土生山にある。 |
土佐国図面作製中、病にかかって明治14年(1881)11月19日死亡。行年53才。墓は下田にある。なお現代県下日本画の重鎮中島啓朝氏は小彎の娘の孫に当たる。 |
維新回天の大業がなって、天下が平穏になると、一人中村に止まって後輩の教育に当たるため遊焉堂(遊焉義塾ともいった)を開いた。明治、大正年代の本郡出身知名の士で、その薫陶を受けぬものは希である。 また、郡下産業の振興にも留意し、幡多物産の増殖並びに移出に尽力した。その後中村尋常小学校が開校すると招かれて教師となり、ついで高知中学に転じ、また第四中学中村分校に帰ったが、職務の傍ら遊焉塾を続け、85才の高寿を保ち大正5年(1916)9月13日歿した。 |
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のち独学して18歳の時下田小学校助手となり、明治18年(1885)(22才)小学校高等科教員免許をとる。27才の秋に湯島の医学専門学校済生学会に入学し、明治26年(1893)30才で卒業。神奈川県で開業、「医は仁術也」を実行する生活であった。 鍋島出身沖本忠三郎二女熊子(明治9年(1876)5月生)と結婚、彼32才の時である。同29年7月には、恵まれぬ子らのために「小児保育園」の看板を並べた。当寺の常套語である「孤児院」を絶対不可とする彼の強い信念から生んだ「保育園」は今日も広く使われ、その元祖といってよい。同39年園児収容の家をたて、併せて医業を廃して、鎌倉保育園として苦難の中にもかがやかしい発足をした。 大正12年(1923)9月関東大震災にもあったのですが屈せず翌年再建、さらに託児部、母子寮など付設して、現代の社会福祉政策の先鞭をつけたものとして高く評価すべきであろう。昭和15年(1940)8月16日中風症の為逝去、行年77才。 音二郎の生命は郷里下田に福祉施設「若草園」としてある。 |
同43年(1910)5月25日大逆事件なるものが勃発し、6月1日同志と共に捕らえられ44年1月18日死刑の判決を受け、同24日刑を執行せられて数奇の一生を閉じた。時に41才。 ■ 幸徳秋水を顕彰する会公式ホームページ ■ |
昭和37年(1962)11月8日歿。行年81才。妻は駒(村越氏)である。 |
父の初代金之助は伯父の初代南与兵衛(安田より十川へ)を助けて北幡物産取扱いを手広く経営し、さらに明治21年(1888)中村に進出して金物商を、さらに同31年(1898)京町一丁目に書籍文具店を創業して当寺の商業としては画期的な業種を選んで、地方文化の向上に資している。 彼は明治41年(1908)以来父の業を助けて事業に専念した。彼の幼名は政吉大正2年(1913)初代を襲名して金之助とした。 町会議員、中村町商工会長等々歴任し、郡の金融界に尽くした貢献も大きい。また学生時代より特に柔道を好み、大正の初期現金物店のところへ町道場を建設して同好の青年層を指導したスポーツ界の恩人でもある。 昭和15年(1940)2月3日歿、行年満54才。妻は重木(安芸市伊尾木、浜田氏)である。 |
39年(1906)第四中学(現中村高校)を卒業し日本画を志して上京したが、転じて鹿児島の第七高等学校造士館へ、続いて東京帝国大学経済学科へ進んで大正2年(1913)卒業。その間与謝野鉄幹のロマン派雑誌「明星」の社友となり、鉄幹の忠告で東声と改めた。 大正6年(1917)3月歌詞「珊瑚礁」を創刊したが大正8(1919)年6月には終刊号を出し、続いて同年8月には生涯の友臼井大翼と歌誌「覇王樹」を創刊して没年まで主宰している。大正10年(1921)1月には、彼の処女歌集であり、彼の生前唯一の歌集である「地懐」を出版している。 昭和5年(1930)12月20日腸チフスで死亡、行年45才。 |
敗戦による青年たちの虚無、混迷の様相を憂い、「団結こそ力なり」の信条のもとに中村町連合青年団を、つづいて幡多郡連合青年団を、さらに県連合会青年団を結成して各々その団長となって新しい青年団へ導いた功績はきわめて大きい。第一回の高知県文化賞を受賞した。特に南海大震災の廃墟の中に全国へ呼びかけて大きな功果をあげた一握り救済運動は誠に印象的である。 その後青年教育向上のために幡多公民高等学院を開設、また県の社会教育委員ともなって、彼の短い一生は青年とともにあるの生涯であったといえよう。 昭和29年(1954)1月24日没、行年36才。彼をたたえる碑は中村公園三の丸にある。 |
| 参考:四万十市史 |