四万十市の歴史・文化・人物
 
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四万十市の人物


   一条 教房 (いちじょう・のりふさ)
 藤原氏北家の一流で、長禄二年関白となり寛正四年辞した。応仁の乱で京都が兵火の巷となって邸宅を焼かれた前関白の教房は,幡多の荘園を恢復する目的で応仁2年(1468)9月奈良を出発して10月中村に着いた。これより中村に府を開き一万六千貫の荘園を領して土佐一条氏の基をつくった。在国13年、文明12年(1480)10月5日58歳で薨じ妙華寺殿と贈り名した。

   一条 房家 (いちじょう・ふさいえ)
 教房の二男で文明9年(1477)中村で生まれた。土佐一条氏の初代となり、土佐国司となった房家は、四万十市街を京になぞらえ、都の文化を移し、また産業を興し貿易を行うとともに、国内の平和維持につとめ左近衛中将、権大納言に任じ正ニ位に進み、天文8年(1539)11月13日63才で薨じた。藤林寺殿と贈り名して平田村藤林寺に葬る。

   一条 房冬 (いちじょう・ふさふゆ)
 房家の長子で母は前参議従二位藤原資冬の女、明応7年(1498)中村に生まれ土佐一条氏二代を継いだ。権中納言、左近衛大将に進み正二位となった。房冬の代は土佐一条氏の最も華やかな時であって父房家の功績はそのまゝ房冬にも当たるものである。天文10年(1541)11月6日44才で薨じた。円明院殿と贈り名して中村円明院に葬る。

   玉姫 (たまひめ)
 一条房冬の夫人で、式部卿伏見宮邦高親王の王女である。大永元年(1521)6月一条房冬に嫁し、房冬薨去の後落飾して仏教に帰依せられたが、天文16年(1547)8月22日病死した。戒名は観喜心院殿専信尼公。墓は新町三丁目常照寺跡にある。

   山内 康豊 (やまのうち・やすとよ)
 通称を匠作といい、修理亮と称した。山内但馬守盛豊の三男で土佐守一豊の弟である。
長じて兄一豊を助けて戦功を積み、一豊が諸臣を率いて土佐に入国すると康豊は幡多二万石を与えられて中村山内家をたてた。
 慶長10年(1605)9月20日一豊が歿して康豊の長子忠義が統を継いだが幼少であったので康豊は後見として高知に出た。寛永2年(1625)8月19日、77才で卒した。法光院殿と贈り名し高知要法寺に葬る。康豊の妻(信州水野出羽守の妹)の墓(遺髪ともいう)は中村小学校前の旧蓮光寺跡にある。

   山内 政豊 (やまのうち・まさとよ)
 通称は吉兵衛、康豊の二男で父康豊が高知に移ってのち中村山内家を継いだ。性寛容慈愛の心深くよく民心を収めることが出来た。治蹟十余年で寛永6年(1629)4月8日に死す。玉照院殿と贈り名し中村妙因寺に葬る。行年33才。

   山内 忠直 (やまのうち・ただなお)
 幼名虎之助、修理太夫という。土佐藩二代忠義の二男で、母は松本隠岐守定勝の女、慶長18年(1613)9月11日高知で生まれた。忠直治蹟13年、寛大で慈愛心に富み善政を行うて民皆悦服したという。寛文7年(1667)6月9日53才を以って卒去、顕徳院殿と贈り名し中村大用寺山に葬る。丈余の大五輪塔は壮観である。(市指定文化財)

   薫 的 (くんてき)
 俗名は康松又右衛門、寛永2年(1625)正月28日中村崩岸に生まれた。名門の血をうけた又右衛門は生まれながらの利発者で、8歳のとき仏門に入って祖父薫友と師牛的の名を取って薫的と称した。
 薫的は獄にあること7年(寛文6年(1666)8月投獄、在獄5年の異説もある)その間、指を噛み切って白衣に経文を血書し、或いは絶食を続けなどして必死に苦節を守り、寛文10年(1670)秋自殺を企てて絶食49日に及び、ついに寛文11年(1671)正月10日跌座のまま憤死した。47才であった。
 東山小学校の谷(いやん谷)に大岩というのがあり、昔より石仏三体を祭ってあったという。そこに薫的の母の清川さんの霊を祭ったものであり、その後薫的親子を祭るようになったものと思われる。建物は明治29年(1896)旧5月27日の建立である。

   山崎 家勝・家永 (やまさき・いえかつ、いえなが)
 家勝は通称市之丞、享保4年(1719)父の死亡によって田の川村庄屋職を相続した。享保9年(1724)田野川の灌漑用水確保のために高中築池の構築をはじめたが元文4年(1739)死亡、その事業を四男家永がついで漸く完成させている。その功績表彰の意もあってか、家永は後に藤村庄屋も兼帯を仰せつけられている。宝暦(1754)12月11日歿。

   弘田 玄冲 (ひろた・げんちゅう)
 宝暦三年(1753)高知に生まれ、のち下田に来往した。医術を修業して安永元年(1772)20才の時下田に開業、その後治療に出精した。
 特に当時郡下には疱瘡が大流行し、彼はその権威者として大いに活躍し、その為幕府から14回も褒賞せられており、文化11年(1814)上下二人扶持をたまわり、さらに文政9年(1826)には御歩行格まで昇進している。天保元年(1830)5月25日歿、行年78才。墓は下田、弘田家墓地にある。妻の名はてい。

   大黒 泰然 (おおぐろ・たいぜん)
 安政五年(1776)上川口に生まれた。幼名十太郎、竜吾と改めさらに泰然と称し、歩山又は橘斎と号した。父の業をうけて医を業とし、また和漢の学を修めて後学の指導をし傍ら笠井鵲巣について和歌俳諧を学ぶ。明治2年(1869)8月入田村に歿す。行年94才。遺録甚だ多し。(今その所在は不明)
 泰然の嗣子を幼名駒太郎のち泰然(駿祥)という、学問を父泰然に学び家業をついで医を業とした。

   九重 亀蔵 (ここのえ・かめぞう)
 寛政3年(1791)中村に生まれた。幼少より体力優れ、長じて相撲に強く、草相撲の横綱となり近隣にならぶ者なく、のち江戸相撲に入って突出前頭となり関脇まで昇進したという。
 一条家(京一条家か)の愛顧をうけて、九重の四股名を貰ったという。腕もあり義侠もあって帰郷後はよく後輩の面倒を見、不幡八幡大相撲の世話方万端を支配したという。慶応元年(1865)8月14日歿。行年75才。角万中平家の先祖である。

   遠近 鶴鳴 (とうちか・かくめい)
 寛政7年(1795)中村に生まれた。通称は次左衛門。鶴鳴はその号である。生家は代々中村町老を勤める豪商で宇和屋という。鶴鳴は幼少から明敏で学問を好み、17、8才の時にはすでに学者として恥ずかしくない程になっていたという。
 中村は、鶴鳴が出てから中村文学(幡多文学ともいえる)は復興し、幕末維新に際して樋口真吉、遠近晋八、安岡良亮、藤本淳七、山崎慎六郎、木戸明等幾多の人傑を門下から出した。天保15年(1844)9月7日50才で歿した。

   安並お清 (やすなみ・おせい)
 姓は宮崎、安並高井の産、百姓長平の長女として文化13年(1816)7月11日に生まれた。背は高いほうで色白、豊艶な丸顔、魅力ある黒い眸・・・と近代型美人であった。このお清さんに渡川を渡り、お日和髷してセッセと通ったのが入田の庄屋さん(小野氏?)であるが、二度もだまされて粋人の厄がぬけたというものか。「安並お清は芝天狗、そりゃなぜに、入田の庄屋さんを二度だました。」
 なおお清はのちに養子清平と結婚し、弘化元年(1844)には長男亀助をもうけている。
 明治22年(1889)5月6日死、行年74才。墓は石見寺南西やゝ下の方にある。

   中平 泰作 (なかひら・たいさく)
 頓智、奇才に富み、「泰作さん」の名は幕末から明治、大正、昭和にかけ幡多一円に知れわたった名であるが、数々の奇行、逸話に「泰作ばなし」として県下でも有名である。
 安政4年(1857)5月10日死亡。墓は土生山にある。

   島村 小彎 (しまむら・しょうわん)
 文政12年(1829)7月2日下田に生まれた。通称弥右衛門である。幼少より絵画を好み、高知に行き、川田小竜について絵を学んだが次第に頭角をあらわして名草、一芳と共に土佐三蘇の一人とうたわれ、この画才で中央に学ばなかったことを惜しまれた。号は小彎である。
 土佐国図面作製中、病にかかって明治14年(1881)11月19日死亡。行年53才。墓は下田にある。なお現代県下日本画の重鎮中島啓朝氏は小彎の娘の孫に当たる。

   木戸 明 (きど・めい)
 通称は駒次郎、鶴洲と号して幕末における幡多郡一の儒者である。天保5年(1834)6月中村に生まれた。家は代々郡内屈指の富豪で吸田屋という。幼少より学問を好み、初め常照寺大雲に学び、傍ら樋口真吉について剣術を修めた。嘉永4年(1851)18才の時には京に上り、国学経書を研鑚、帰国すると樋口真吉,安岡良亮等と勤皇討幕に活躍し天下の志士とも交わった。
 維新回天の大業がなって、天下が平穏になると、一人中村に止まって後輩の教育に当たるため遊焉堂(遊焉義塾ともいった)を開いた。明治、大正年代の本郡出身知名の士で、その薫陶を受けぬものは希である。
 また、郡下産業の振興にも留意し、幡多物産の増殖並びに移出に尽力した。その後中村尋常小学校が開校すると招かれて教師となり、ついで高知中学に転じ、また第四中学中村分校に帰ったが、職務の傍ら遊焉塾を続け、85才の高寿を保ち大正5年(1916)9月13日歿した。

   川谷 重政 (かわたに・しげまさ)
 通称は銀太郎、香美郡山北の人。土佐藩隊六番隊に入り、明治元年(1868)泉州堺守護の為、同地に駐屯。同年2月15日仏国軍艦同港に投錨し、水兵上陸して狼藉をし、市民大いに恐れてこれを土佐藩守備隊に訴えてきたので、わが守備隊がこれを撃退し数名を倒した。これが国際間の厄介な問題となり遂に2月23日六番隊長箕浦猪吉、八番隊長西村左平次以下18名の者が堺妙国寺に於て割腹自刃を命ぜられ、順次11名に及んだ時仏国公使より残り9名の助命があった。重政はその中にあり5月21日渡川以西へ流罪に処せられ、重政同年9月4日病気の為配所(入田)で死亡した。墓は同地にある。

   小野 英子 (おの・ふさこ)
 嘉永4年(1851)中村に生まれた。長じて小野道一に嫁した。資質至直、夫死亡後は刻苦よく艱難を凌んで家を守り、子女を養育した。明治38年(1905)戦勝記念として、町有志の後援を得て私立幼稚園(後の中村町立幼稚園)を創立、幼児の保育に努力すること十数年に及んだ。昭和12年(1937)9月12日大阪府豊中市で死亡、享年87才。

   佐竹 音次郎 (さたけ・おとじろう)
 元治元年(1864)、竹島、宮村源左衛門の四男としてうまれ、7才の時中村上町紺屋佐竹友七の養子となったが後離別して実家へ帰る。
 のち独学して18歳の時下田小学校助手となり、明治18年(1885)(22才)小学校高等科教員免許をとる。27才の秋に湯島の医学専門学校済生学会に入学し、明治26年(1893)30才で卒業。神奈川県で開業、「医は仁術也」を実行する生活であった。
 鍋島出身沖本忠三郎二女熊子(明治9年(1876)5月生)と結婚、彼32才の時である。同29年7月には、恵まれぬ子らのために「小児保育園」の看板を並べた。当寺の常套語である「孤児院」を絶対不可とする彼の強い信念から生んだ「保育園」は今日も広く使われ、その元祖といってよい。同39年園児収容の家をたて、併せて医業を廃して、鎌倉保育園として苦難の中にもかがやかしい発足をした。
 大正12年(1923)9月関東大震災にもあったのですが屈せず翌年再建、さらに託児部、母子寮など付設して、現代の社会福祉政策の先鞭をつけたものとして高く評価すべきであろう。昭和15年(1940)8月16日中風症の為逝去、行年77才。
 音二郎の生命は郷里下田に福祉施設「若草園」としてある。

   幸徳 秋水 (こうとく・しゅうすい)
 本名伝次郎、明治4年(1871)9月22日中村町の豪商幸徳家に生まれた。幼少より秀才といわれた彼はやがて先輩中江兆民の学僕となって研修。明治39年(1906)機関紙日本平民新聞を創刊、その頃から議会主義を否定し、労働階級の直接行動、つまりアナーキズム運動を主張するにいたったが、第二次桂内閣の圧迫は言語に絶するものがあった。
 同43年(1910)5月25日大逆事件なるものが勃発し、6月1日同志と共に捕らえられ44年1月18日死刑の判決を受け、同24日刑を執行せられて数奇の一生を閉じた。時に41才。

 ■ 幸徳秋水を顕彰する会公式ホームページ

   貞弘 虎吾 (さだひろ・とらご)
 明治15年(1882)1月30日中村に生まれた。高知旧制実業補修学校(市立高知商業学校の前身)に学び、卒業後父の樟脳販売等に従事し、やがて大正の初年頃独立して呉服商を営み、次第に盛況を呈した。町会議員、県会議員もつとめ、地方自治への貢献に留まらず、さらに大きな問題として幡多信用金庫の創立と運営がある。
 昭和37年(1962)11月8日歿。行年81才。妻は駒(村越氏)である。

   楓 金之助 (かえで・きんのすけ)
 明治18年(1885)10月1日安芸郡安田町に生まれ、明治37年(1904)県立第一中学を卒業後翌38年長崎高商に学んだ。
 父の初代金之助は伯父の初代南与兵衛(安田より十川へ)を助けて北幡物産取扱いを手広く経営し、さらに明治21年(1888)中村に進出して金物商を、さらに同31年(1898)京町一丁目に書籍文具店を創業して当寺の商業としては画期的な業種を選んで、地方文化の向上に資している。
 彼は明治41年(1908)以来父の業を助けて事業に専念した。彼の幼名は政吉大正2年(1913)初代を襲名して金之助とした。
 町会議員、中村町商工会長等々歴任し、郡の金融界に尽くした貢献も大きい。また学生時代より特に柔道を好み、大正の初期現金物店のところへ町道場を建設して同好の青年層を指導したスポーツ界の恩人でもある。
 昭和15年(1940)2月3日歿、行年満54才。妻は重木(安芸市伊尾木、浜田氏)である。

   橋田 東声 (はしだ・とうせい)
 本名は丑吾、明治19年(1886)12月20日中筋村有岡(現四万十市有岡)の農家に、忠太郎の二男として生まれ、既に中学時代から短歌、詩に興味をもっていた。
 39年(1906)第四中学(現中村高校)を卒業し日本画を志して上京したが、転じて鹿児島の第七高等学校造士館へ、続いて東京帝国大学経済学科へ進んで大正2年(1913)卒業。その間与謝野鉄幹のロマン派雑誌「明星」の社友となり、鉄幹の忠告で東声と改めた。
 大正6年(1917)3月歌詞「珊瑚礁」を創刊したが大正8(1919)年6月には終刊号を出し、続いて同年8月には生涯の友臼井大翼と歌誌「覇王樹」を創刊して没年まで主宰している。大正10年(1921)1月には、彼の処女歌集であり、彼の生前唯一の歌集である「地懐」を出版している。
 昭和5年(1930)12月20日腸チフスで死亡、行年45才。

   兼松 林檎郎 (かねまつ・りんごろう)
 父三郎(医師)母寿美の長男として大正6年(1917)12月23日生まれ。県立中村中学を卒業後教職を志して渭南国民学校や幡多実業女学校に勤務したこともある。
 敗戦による青年たちの虚無、混迷の様相を憂い、「団結こそ力なり」の信条のもとに中村町連合青年団を、つづいて幡多郡連合青年団を、さらに県連合会青年団を結成して各々その団長となって新しい青年団へ導いた功績はきわめて大きい。第一回の高知県文化賞を受賞した。特に南海大震災の廃墟の中に全国へ呼びかけて大きな功果をあげた一握り救済運動は誠に印象的である。
 その後青年教育向上のために幡多公民高等学院を開設、また県の社会教育委員ともなって、彼の短い一生は青年とともにあるの生涯であったといえよう。
 昭和29年(1954)1月24日没、行年36才。彼をたたえる碑は中村公園三の丸にある。



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