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樋口真吉  樋口 真吉
   
 

 

 
   樋口 真吉

 樋口真吉は、幕末維新時の幡多郡中村の偉人、勤王の志士です。
 名を武といい、通称は真吉。字は子文。彬斎、愚庵、南溟などの号を用いました。
 父の信四郎は長岡郡大津村の出身で、後年幡多郡中村詰めとなったことにより、真吉は中村で生まれました。弟を樋口甚内といい、親子三人ともに剣術の達人でした。真吉は特に出藍の誉れと讃えられています。
 文化12(西暦1816)年幡多郡中村に生まれ、性格は特に意思が強く抜きん出ており、文武の才を兼ね備え、身長は約173cm(5尺7寸)と当時としては大柄でした。

 幼少の頃から、武芸を好み、撃剣を最も好み打ち込みました。
 剣術は、先ず父から無外流の手ほどきを受けました。成長してからは、筑後の国の大石氏の門をたたき大石神陰流の印可をうけ、その後に諸藩を歴訪します。各藩の有名な剣士を訪問しては教えを請い、剣を極めました。他に槍術も修行しています。
樋口真吉
 砲術は、最初に土佐藩士田所左右次に学び、後には松代藩の洋学の大家佐久間象山(勝海舟の義弟)に師事して、西洋式砲術の奥義を究めています。天性の敏捷さに加えて、非常に刻苦勉励し、寝食を忘れるほど一心不乱に修行に打ち込みました。
 学問は、始めるのが比較的遅く十九の頃に近所の遠近鶴鳴に師事しました。後に、武術修行と平行して筑前亀井鵬州、京都岩垣月州、大阪後藤松陰、江戸安積艮斎の門をたたいています。
 精進の結果、文武諸芸すべてに通じて、その奥技を体得したといわれています。

 中年の頃、帰郷して、家塾を中村小姓町の山寄りに開き郷土の子弟の教育につとめました。土佐藩の藩士はその令名を慕い、門下生は常時数十から百人といわれています。勢い盛んなときには伊予の諸藩からも教えを請うために、中村を訪れる者もあったほどでした。受講したものを集計すれば壱千名を下ることはないといわれました。
 土佐藩士としての経歴は、最初は組外でしたが、嘉永末に歩行格に出世し、幡多郡香美郡二郡の 郡下役を歴任しています。
 郡下役を勤めはじめて間もなく、黒船が来航し開国を求められるという外交問題が起きて、砲術を学んだ田所左右次を援けて、幡多郡下田港、高岡郡須崎港に砲台を築き、大砲を据え海防に備えました。
 文久元(1861)年から明治維新(1868)にかけて、真吉は国事に関わり東奔西走します。武市瑞山と土佐勤王党を支え、瑞山投獄後も勤王党派の西の要として藩論を倒幕に統一することに力を尽くしています。この間、土佐藩は、上士と下士の対立から勤王の立場も二つに分裂し、公武合体派と討幕派が互いに主導権を争っていました。瑞山下獄により、清岡道之助を代表とする藩東部安芸郡の志士たちは瑞山の武力奪還を唱える過激派となり、ついに野根山二十三士の脱藩騒動、刑死するという悲劇的な結末を迎えました。藩東部にひきかえ、幡多は真吉自身が非常なる慎重派であり、自重したため僅かに二名の脱藩者を数えるにとどまりました。

 その後に、時流は激変して倒幕の気運はますます高くなり、真吉達は再び日夜倒幕運動に奔走します。
 明治元(1868)年、政府軍として東征に参加したときには、小監察に任ぜられ「錦の御旗」を立て進軍した。軍の裁判役を仰せつかり、凱旋帰国した後には、その功をもって留守居組に出世します。
 明治三(1870)年、徳大寺大納言の公務人となり、従七位に叙任せられるが、同年六月十四日、東京で逝去。享年五十六歳。麻布徳正寺に埋葬され、のちに従四位を遺贈せられました。
 幡多郡の門弟たち有志が、相談の上で中村土生山に改葬しました。



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